女王の教室 最終回

 やっぱさぁブログってぇ、情報の鮮度が命みたいなとこあるじゃん?何をいまさら感想文、って感じもするけど、まぁ書くとするよ。
 「よい」という言葉の意味はけっこう広範にわたるもんで、真・善・美なんかはみーんな、言葉のうえでは「よい」と言われてしまうというのがありますわね。んで「よい先生」とはどんな先生か、であるとか「よい教育」とは?みたいなことが、一貫したテーマだったわけで。
 生徒が催眠か何かのように、最終的にマヤ崇拝をするようになったことは、まぁ表現の問題であるからおいておく。とはいえあそこまで全員が全員、マヤ信者にはならんだろう。にしても、マヤのいうことの絶対的な正しさ(真)を、今の小学校教育の甘ったるい善や美よりも重視する人間は、いてもおかしくない。このへんは価値観の問題であって、人によって最適なバランスは異なるだろうから水掛け論になるだけで時間の無駄なので放っておく。*1
 逆に言えば「先生のいうことは残酷な現実だから全て目をそむけます。私の頭の中はいつもお花畑でちいぱっぱな状態にしていたいの」という人間が強固に反発を続けたとすれば、マヤはどうしていただろうか、というのが個人的に興味深いところだったりするのだけれど。それも一つの信念として押し通せば、認めてくれるんかな。そうでないのなら、彼女はうすっぺらい。
 考えることや感じることを放棄しても、幸せにはなれないというのを私は割と身をもって知っているので、マヤの説教は大事なことを伝えていると思う。ただし「しあわせである」ことと「しあわせだと本人が感じている」ことは違うけれど区別が難しいことだから、馬鹿には馬鹿なりのしあわせ(偽物かもしれないが)を提供できるなら、それも正しい社会のありようだと思わないでもない(抽象的ですが)。
 サンクチュアリという漫画(つーか劇画?)で「発展途上国で最も重視すべきは教育です」という意味のことを言ってたなぁとか、「教育」とは「その社会にとって都合のいい人間をつくるためにするもの」だった歴史についてとか、大学のレポートで書いたのを思い出すよ。愚民化政策つーか、ある程度馬鹿なほうが、統治には都合がいいわけで。
 政治とは支配であって、教育とは洗脳であって、宗教とは狂信であるのだよ、あったのだよというのをどこかで読んだなぁ。呉智英だったかなぁ。その呪縛みたいのから逃げる努力というか、逃げられる可能性を秘めているという意味では、日本っていい国だなぁみたいのはあるんだけど、馬鹿ばっかりになれば危険なシステムでもあるよね。(しかし話題が大きくなりすぎだなぁ。)
 なんか面倒くさくなってきたから終わりにしちゃおうっと。とりあえず大好きなドラマである。DVDでたら買うと思う(子供ができて適度に大きくなったら見せたい)。ノベライズ本は売ってなかった。見てないけどドラゴン桜とこのドラマは、表現、ストーリーはともかく主題つーか説教の部分はあらかた正しい、けどちょっと心に刺さるというところがドラマの新しい地平なんじゃねぇかな、と思う。テレビドラマなんてもうとうぶん見ないだろうけど。

*1:真善美の意味の取り違えについては、ある程度分かって書いています。