電波文

終焉の焉という漢字が仮にその字面から「正しい鳥」という意味であるとする。それでは鳥は正しくはないのか、ということに思い当たる。しかしこの判断は誤りである。なぜなら焉の定義が「正しい鳥」であるのだから、鳥が常に正しくないのだとしたら焉じたいが存在しないものであるからである。しかしこの判断は誤りである。なぜなら特定の単語の定義が実際に存在しないものであるからといって特に問題はないからである。鳥という言葉が意味する領域の中に正しい鳥も正しくない鳥もいるという捉え方のほうがより妥当であると判断することが賢明であるといえよう。では正しい鳥が焉であるのだから正しくない鳥にもそれを示す漢字が存在すると考えるのは誤りである。なぜなら正しくない鳥はとりたてて語る必要のない存在だからである、という判断は誤りである。とりたてて語る必要のない存在を指し示す漢字はあってもよいからであり、それ以前にとりたてて語る必要の有無と漢字の存在は無関係であると判断することが当然なのである。なぜなら漢字を使用しない文化圏というものが存在するからである。鳥は正しい正しくないにかかわらず鳥であり、正しい鳥は焉であり、正しくない鳥はそれをさす漢字がない。ここで問題となるのは鳥の正しさについての基準を人間が設けてよいものかどうか、という人倫と鳥倫の問題である、という判断は誤りである。なぜなら正しい鳥を焉と表記することなどないからである。