書きますよ

まあ何とでも言って笑うなり蔑むなり呆れるなりするといいよ

しばらく休みますと書いたのは、書きたくなくなったからではないのです。
書かないほうが良かろうと思ったからなのです。
なぜ、書かないほうが良かろうと思ったのかといえば、それは先日の日記のとおりで、非常にネガティヴな精神状態にある(今も)からなのです。
ネガティヴな日記にしたくないとの思いからの自制であって、我慢だったのです。
けれど、もうネガもポジも関係なく、書きたいときにはどんなに陰鬱な内容でも、どんなに馬鹿な内容でも書こうと思います。
そのほうが楽な気がするのです。他の誰か、とくに、ここを何かのきっかけで訪れてしまった不幸な誰かが、ぼくの陰鬱な日記を読むことで「うわあぁ↓↓↓」な気持ちになっても、知るかボケ勝手にくたばれと思うようにするのです。
気をつかうという行為が、全体的に面倒くさいのです。Webの中くらい、自分のダイアリの中くらい、ちょっと頭がおかしいくらいの振る舞いでいいやと思えてきたのです。

で、何がそれほど君にネガティヴな感情をもたらしたのか

それが分かればあとは理性でえいやぁとひっくり返せる(返したい)のですが、分からないからこのありさまです。
鬱がいちばんひどかった日々、ぼくは「抑鬱感がおさまっても、その先にすばらしい世界なんてない」という思いで、死にたくて仕方ないなりに生きていたのです。そして、それはある意味とても正しかった。
しかし、ある意味では全くの誤りでもあったのです。ぼくは、生来の抑鬱少年だったのです。抑鬱感は、収まるとか、解消するとか、そういうもんじゃなく、ぼくそのものの背骨だったのです。
ひまだから死にたいと思っていた中学時代や、自己劣等感に全てを抑制され身動きすら取れなかった高校時代を経て、大学で何もできなくなって人生にリセットを押したぼくだったのですが、リセットした気になっていたのはぼくだけで、結局何も変わっていなかったし、たった一人の大切なひとにさえ、それを隠しとおすことなどできなかったのです。
今にして思えば、大好きだった彼女ひとり騙し続けられないのは、当然のことです。なぜなら、自己催眠さえ不完全だったからです。
「リセットされたあたらしいぼく」を装って生きていくこと自体が、大いに無茶だったのです。

で、どうするのか

残りの人生を、あのへんのすみっこで生きることにしました。あのへんのすみっことは「あきらめた人の居場所」であり「もういいよ(どうでも)」の世界です。
会社でステキなひとに思いを寄せたり、ほかの同世代の男どもと談笑したり、夢を見たり、努力したり、満足したり、しちゃいけないんだなぁと思って生きることにしたのです。辛くない程度に仕事して給料だけもらってればいいかと思うことにしたのです。
感情を、縦でも横でも上でも下でもいいですけど、とにかく激しく揺さぶらないように生きることにするのです。どうせ、感情を高く上に揺さぶっても、よく分からない何かに引っかかって、吸い付くように下へ下へと落ちてしまうのだから、ぼくは何もしないほうがいいのです。もういやです。
吉良吉影ではないけれど「植物のように平穏な毎日を」望むことにしたのです。ぼくは殺人者としてのサガを持たないかわりに、知恵も能力もないので、必然的にものすごくものすごくどうしようもないどうしようもない平穏というよりは平坦な毎日を送ることになるのでしょうが、もうそれでいいと思うことにするのです。

そんなこんなで

自我を失わない
自我を偽らない
自我を抑えない
ように生きていくつもりでいるのです。これだけ見ると「傲慢に生きていく決意」に見えるのですが、まったく逆の行動が結果としてあらわれることだと思います。何がどうしてぼくはぼくでこうなのかなんて知ったことではありませんし興味もありませんが、とりあえず、もう、いやになったのです。感度の悪いアンテナなんぞヘシ折って、ぼくはぼくの小さな小さなテリトリーの中だけで生きていくのです。

もういやなんです

こんなもん世に晒す根性が最低ですね。長い割に何も説明になってない。