オタクらしく、マニアらしく、自説を並べて喜んでみる。テーマは「極私的RPG考」ということで。全体的にゆがんでますから、どうぞ批判してください。あくまで自説なので、鵜呑みにしないで下さい。ここでいう「RPG」にはアクション要素(素早い操作、タイミング、複雑な操作などを要求する状況)を一切含まないことにしておきます。

 あくまでmy定義として、日本の方式におけるRPGとは「達成感シミュレータ」である、というふうに私は考えております。
 もうちょい簡単に言うと、「目的達成にはいろいろ苦難もあるけれど、頑張ったら頑張っただけ見返りがあって、やればできる、やればなんとかなるように作られた箱庭」ということですね(ちいとも簡単ではないね)。
 つまり、(少なくともゲームの中では)ちまちま育てたキャラクタのパラメータが無にかえるようなことはあってはいけないと思うのです。だから「俺の屍を越えてゆけ」とか「わが竜を見よ」とかは、(自分の勝手な定義の中では)RPGとして異端です(桝田作品だから異端なのは当然といえば当然だけれど)。長期的に見れば俺屍の一族は強くなっているし、竜も転生前よりも転生後のほうがよく育つっぽいので、厳密には無駄になってないんでしょうけれどもね。

 大昔、Vジャンプという雑誌(の付録だったかな)に載っていたゲームに関するコラムの中に、こんなような内容がありました。
 編み物のゲームはどうか。画面を見ながらちくちく編み針を動かして、着ることもできないゲーム画面の中でセーターを完成させるのだ。 
 これはコラムニストのジョークなんでしょうけれども、今にして思えば「ゲームの中でおこる出来事なんてのは所詮、現実と相容れないものだ」という筆者の含みがあったのかもしれません。
 ゲーム狂な人々はこういうこと言われると凹むかもしれないけれど、何だかんだ言ってゲームの中で積んだ技能・経験などのあれこれは絵に描いた餅というやつなんでしょうね(例外がないとは言わないけれど)。
 だからこそ、RPGの中で積んだもの(経験値やフラグの山)が「ゲームの中でさえ」無駄になる、なんてことはあってもストレスなだけだと思うのです。私が考えるRPGとは、砂場で砂山を作るようなものかもしれません。

 最近のRPG(ほとんどやってないけどね)は「やりこみ」と称して作業(ほんのちょっと違うだけの2周目とか)を強要する風潮があるみたいですが、何か違うような気がします。それで得られる達成感は、「今日もようやく仕事が終わったぞー」みたいな、苦痛からの回避であって、RPGの表現すべき達成感ではないような気がします。「やらされてる」感じがしたらオシマイですよね。いわゆるおつかいというやつですね。
 自由度については、手段の問題なのでどっちでもいいと思います。「釈迦の手のひらの孫悟空」であること自体は、そう問題ではないはずです。ただ、手のひらにいることを自覚していて、しかもそれが苦痛であったら、どうしようもない。逆に、自由度の高さのせいで「何でもできる=何もかも中途半端」であるのもどうしようもない。

 書いてて飽きてきたので(いつものことです)、終わり。「じゃあお前作ってみろ」とか言う人はゲーム業界の就職先をください(笑)。ご意見ご感想、ご批判ご苦情などございましたらコメントください。謝ります。あと俺屍すきですよ。いわゆる普通のRPGじゃないよね、って書いただけなので。