外化と特化

 自分のやりたくないこと、不得意なことは人に丸投げして(責任をとらず)、ただただ自分のやりたいこと、得意なことだけをやる。というのが現在の社会の傾向なわけです。
 大きい会社になると、名前(ブランド)を振りかざすだけの存在に成り下がり、最終的に全てを丸投げして、責任を放棄して、看板でメシを食うような状態にもなってるわけです。
 ところで、あらゆることを外化する、というのは、人間の生物学的本質なのかもしれないです。自分の内側を本能でガチガチに構築したほかの動物たちと違い、人間は自分の外側について考え、自分に都合のいいものを作ることができた。工夫することができた。だからこれだけ蔓延っているのかなぁとかいう話です。
 だから、自分の内側に何もない、というのは人間として(少なくとも生まれたばかりの状態では)正しいということなのでしょうな。白紙(タブラ・ラサだっけ?)というやつ、か?よくわかんないけど。
 てことは、特定のひとつのことだけをやってればいい、という特化の状態ってどうなんだろうか? そこに退化というか、人間の本質を失った何かを感じるし、逆にそれこそが人間の極まった形であるかのようにも感じる(このへんは論理もへったくれもないフィーリング)。いわゆるスペシャリストは望まれ、迎え入れられても、ジェネラリストは生きにくい時代なのかなぁ、とか論理の飛躍とか、そういう次元じゃない飛躍でもって、くだらないことを考える。