原始的な欲求

 ぼくらはおなかがすいたらごはんを食べる。おなかがすいたから食べる。
 しかし、おなかがすいていなくても、おいしかったら少しは食べる気になる。
 ここで逆に考える。もし食物に味がなかったらどうなるか。おなかがすいても、ぎりぎりまで我慢するはずだ。なぜなら、その場合に食事は、ただ空腹を満たすための作業であるからだ。つまらないからだ。
 そして当然に、そのぎりぎりで食いっぱぐれると死ぬ。貧乏学生とかが。
 ということは、味または味覚というものは「人が生きのびる上で、少しでもリスクを負わないために」設定されていると考えることができる。副産物とさえ言えよう。
 こういうことをだらだら考える人間(であるところの私)は、それゆえ「美食」というものを信じない。そりゃまぁ、おいしいほうがいい、というのは分かる。よく分かる。でも心のどこかでくだらないことだと感じている。
 私にとっての食事は、機械にとっての燃料と同じであっていい。割と本気でそう思う。もちろん、おいしいほうがいいけれど。
 一時期、ほぼ毎日、毎食カロリーメイトばっかりにしていた。それで大丈夫だった。今は大量購入できないのでやめて、コンビニメシ三昧だったりするのだけれど。
 けっこう前からこんなことを考えているのだけれど、人に話すと異常だと思われるようなので少し悲しい。カロリーメイト漬けの日々を送っていたときには「文化的でない」との指摘をうけたこともある(そのときは「でも文明的ですよね」と返事した)。
 私の目からすれば、美食への飽くなき探求に燃える一部の富裕層の皆様のほうが、よほど奇妙なんだけれど、まあどうでもいい。