昔話(私と評価と感想文などについて)

 保育園のとき、人の反応が見たくて、靴とサンダルを片方ずつ履いていったことがある。
 小学校のとき、「クラスで一人しか解けないような問題は解くのに、それに夢中で単純な計算問題を無視したり間違えたりする」と言われたことがある。提出期限を忘れていて直前にパパっと書いた作文が、異常に高く評価されたことがある。
 中学校のとき、「suzukisuzukiくんは将来学者になれそうですね」と国語の課題に書かれたことがある。先生に「窓を閉めろ」と言われて無視していたらほかの生徒が閉め、先生がキレた。「最初に気づいた人が閉めなさい」と戯言をおっしゃるので「じゃ先生が閉めないと」と言ったことがある。生徒が学級日誌の所感欄にろくに書かないので担任が「百行書け」と言ったのでうんざりするほどの文量を書いてやったことがある。
 高校のとき、講演に来た女流小説家の態度が不快だったので、感想文で理詰めの批判を並べたことがある(小説家の手元にとどいてはいないかもしれない。担任は読んでニヤニヤした)。日誌の生徒所感の欄に「教師とは、生徒が最初に『職業・進路』を意識して出会う大人であり、相応に人間的成熟が必要であろうが、現実にはそうでもない。」という意味の文章を書いたことがある。一日大学ノートに1ページ、日記(エッセイに近い)をつけていた。今よりずっと文章がうまく、考察も深い。馬鹿丸出しの現状が悲しい。
 そして今、大学生兼業ニート。高校んときは変な方向にとんがってたなぁ、と思う。
 己の文才その他もろもろの才能を認め、伸ばす方向で生きていれば、人生ちがったものになってたかしら。誰にどう褒められても「んなこたぁない」と思ぅて抑制していたのが、なんだか悲しい。銭形先生理論は、私にとって魅力的に映るけれども、必ずしも正しいかどうかは分からない。まぁ気にしないでおこう。