高校生クイズとかの話をいまさら。

 帰省してて書けなかった高校生クイズの話を書くよ。
 高校時代は、友人のいない暗黒時代だった。今も似たようなものだが、気のもちようが違う。
 学生当時、同じクラスの知人(世界史&SNKのゲームのマニア。濃い目。)と「高校生クイズってどうよ?」という話題になり、「純粋なクイズなら参加してみたいが、とんだりはねたり叫んだりしたくはない」と答えた。そいつも同じ考えだったため出場はしなかった(私が出たいといえば出ていたかどうかは分からないが)。
 その年、わが校の女子生徒が「運大王」という幸運だけで勝ち上がる制度にて、かなりいいとこまで行った。評価すべきか恥ずべきか迷うところである。
 出るなら純粋なクイズがよかったが、見るぶんには多少のアクション性があるのは正しいとも思う。私がただ、お祭り騒ぎを嫌っているだけのことなので。「陽」のエネルギーにあふれた若僧どもがとんだりはねたり叫んだりしているのも、見ているぶんには楽しい。
 さて本題。高校生クイズってどんどんクイズじゃなくなってるみたいね。ここ数年見てないんだけどさ。アクションはまぁいいのよ。テレビだからね、分かりやすさとか、絵的にも動きがほしいだろうし。
 しっかし、今年のはひどいね。クイズっていうか説教臭さが炸裂してて。なんだか悲しくなった。クイズじゃなく、アクションもなく、チーム分断されてちょっと弱気になったところで若僧に説教。最悪ですよ。オトナげない。「わたしゃ何を見てるんだろう…」みたいな置いてきぼり感でしたよ。「○○の大切さを伝える」ための手段としてクイズを用いた時点でアウトでしょ。高校生クイズ、っていうクイズ番組なんだから。クイズそのものが目的なんだから。
 キーワード「高校生クイズ」でダイアリめぐったけど多すぎて諦めた。でも、「こんなもんクイズじゃねぇ」はいくつかあったし、純粋なクイズ好きから批判され、クイズ番組好き(アトラクション的要素を含めたクイズ番組そのものの愛好者)からも批判されていたように思う。「高校生が頑張ってる姿を見るのっていいね」というのは、まぁ分かる。ノスタルジーみたいのも、まぁ分かる。
 構成もデタラメでクイズ問題も質が低くて、あげくお祭り騒ぎに来た高校生に偉そうに説教たれるようなダメな空気の番組になっちゃったのね。ということがひじょうに、ひじょうに残念だった。友情とか団結とか、悩んだりひらめいたりとか、そういうのは自然にメッセージとして伝わるはずのものだと思うんだけど。半端に思想を押し付けるようなダメ説教して満足げになってどうすんの?製作者はバカか?
 あ、ダイアリまわったときに、クイズ番組好きな人が、クイズ番組を途絶えないか視聴率が気になるようだったけれど、あんなの続いてもむしろ害悪じゃないかとか思ったよ。
 あの説教臭さを素直に受け入れて、今年の高校生クイズに対して肯定的になれた人間は、少なくとも私とは住む世界が違う。私は今年の高校生クイズを母とともに罵倒し、途中のドキュメント味が濃い部分だけ(しばらく我慢したが耐え切れず)裏番組を見た。
 あんなものに感動などまるでできないが、先日の「TVチャンピオン」の「デカ盛り王選手権」には大いに感動した(デカ盛りという異文化に衝撃を受けた)。いわゆるB級グルメをさらにグロテスクにしたものだった。何か芸術というか、未知とか異文化を感じた。
 母はこの「TVチャンピオン」を気持ち悪いといい、その後の映画「フロム・ヘル」を面白がった。私は「フロム・ヘル」を救いのない鬱映画だと思った(こっちのが気分悪くなるわい)。ジョニーデップは好きだけどさ。
 価値観の多様化という表現は使い古されたものだけれど、それを現実において、ここまで強く感じる機会があることに驚いた。
 日本国内でさえ、人によって価値観はどえらい違いを見せるのだから、私は「人と人とが完全に分かりあえる日など来ない」と今まで以上に強く思った。こわいこわい。
 高校生「クイズ100%」と高校生「クイズ&ゲーム」にわけるとか、コース選べるとか、点数換算で調整できるとか、なんか工夫してでも昔の形式あるいは純クイズにしてほしいです。