人生の節目のセンチメンタリズムみたいなそうでもないような何か

 なんやかんやで引っ越して地元に戻ることと卒業だけは確かな事実であるわけだから、私はその支度に明け暮れる(というほどでもなく、だらだらしているが)日々なわけで。
 バイトしてた塾に挨拶に行くアポをとってみたり、捨てるものを選別してみたりといった、必然的に己の過去をたどる羽目に陥ったわけで。
 しあわせだったあのころや、憂鬱だったあのころや、さみしかったあのころや、愚かだったあのころの断片(それも、できるだけモノを溜め込まないように生きてきたにも関わらず溜まっていった断片だ)が、ひとつひとつ不気味な存在感を放っている気がした。選別に選別を重ね、それらをあるものは縛り、あるものは潰し、あるものは袋に詰めた。まだ捨ててはいない。部屋に詰まれているそれらは、いまだ不気味な存在感でもって、空間を圧迫している。
 そして、そのために一時的に部屋は散らかっている。
 以前から思っていたことがある。「自分の部屋は自分の心に似ていく。」ずっと触れられずにいた、元彼女の私物のひとつひとつを冷静に分別して処理できる自分は、少しはえらくなれたのかもしれない。今は整理をつけないといけないときなのだ。そう思えるだけ前を向けるようになれた。自分は本気で屑だったのが、人並みよりやや下くらいまで上がってこれた。そう思う。
 前回の引越しは嵐のような急ピッチで行われた。さらに悪いことに、動機は逃避そのものであった。すべて無かったことにしようとして、リセットボタンを押すかわりに引っ越した。リセットはかかっても、自分のレベルは上がらないし、みんなは先に進んでいく。放っておいても腹は減る。年は取る。金は減る。どうにもならなかった。
 そして今回は違う。ここには覚悟とか、理解とか、諦念とか、前向きにせよ後ろ向きにせよ自分の意志がある。「何とかしなきゃ何ともならなかったんだ!」バカのノーベル賞ものの大発見だった。
 「ぼくはみんなよりずっとゆっくり年を取るんだろうなぁ」と、小学校低学年のときに悟った。何故そう悟ったのか全く覚えていないけれど、当たっているのかもしれない。

私信:近いうちに大学のT先生にもご挨拶に伺う予定です。「よろしく言っといて」等の伝言あればコメントに。あるいはメールにてよろしく。