まず結論ありきの理論武装は愚かしいということについて。

 あるひとつの結論をまず固めたうえで、その補強となるもの「だけ」をどんどん取り込んでいくようなモノの考え方はしたくない、と常々思っている。しかしそれは実のところ、けっこう難しい。原則として自分の意見が支持されれば嬉しいし、反証が出てくれば多少なりともムッとなる。これは人間の脳が理性100%でできていない以上、当然のことであって、「人間は必ずしも理論的・理性的に活動できない」ということである。これは馬鹿である、というのとは少し違う。
 インターネットに限らず、世にあふれるさまざまな意見の中で、自分の意見を支持するものも、「それはおかしい」と言ってくるようなものもあって、その中で自分にとって肯定的なものだけを見て喜んでいれば、それがはじめて馬鹿であるという状態であるように思う。
 そんなモノの捉え方・納得のしかたで生きていくと、どんな状況下からでも特定の結論を引っ張り出すようになる。いつだれがどんな論法で諭しても、自分にとってのYESしか聞けないようになってしまう。どんな状況下でも、周囲のあらゆるものが、彼?の望む結論に達する道具として利用されることになる。
 モノを考えるにあたって感情を切り捨てるというと、どうにも冷徹や非情のイメージがつきまとうが、正しさを真剣に求めるならば感情はある程度、切り捨てられてしかるべきなのではないかと思う。
 ただし、例えば議論の場において「勝ち負け」「優位に立つ」といった戦略的な弁論を行うことと、ぼくの思う「感情を切り捨てる」は違う。「自分の考えが絶対に正しいんだい!」というスタート地点がすでに理性的でない。自分の意見というものは「自分ではこれが一番正しいと思うけれど、より正しい意見がよそから出てもおかしくはない」というふううに持っておくといいように思う。
 ただひたすらに端々を突っついて文句を言うとか、ひたすらに語の定義を掘り下げて議題をミクロにして進行を妨げるとか、議論というのは「より正しい結論を出そうとする」気のない人間が少しいるだけで、簡単にうやむやになる。
 「無知蒙昧なぼくら」なんて馬鹿の免罪符みたいなタイトルをつけていても、ぼくは馬鹿でいたいとは微塵も思っていない。とはいえ馬鹿ではあるのだけれど。