相変わらずここはネタが古い

 某「ジャーナリスト宣言」の新聞社のCMだとかキャッチコピーだとかに、たとえようもない気持ち悪さを感じて生きていたぼくなのです。それはいわゆる右だとか左だとかそういう世界の話ではなくて、純粋にあのCMとあのキャッチコピーが気持ち悪いということなのです。

『言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。
 それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。』

 言葉のチカラって何か。本当にそんなもんあるのか、という意地の悪い理系人間(ど偏見)みたいなツッコミがしたいわけじゃない。言葉にはチカラがあると思う。じゃ、それはどういうチカラか。

言葉は未来
言葉は思い出
言葉は鎖
言葉は慰め
言葉は翼
言葉は現実
言葉は夢
言葉は希望

 こういうチカラである。こういう、雰囲気だけでいまいち意味のつかみにくい表現なのに「かっこいい」とか「深みがあるように感じられる」とか、そういうチカラである*1
 夢とか希望とか勇気とか、これらをきれいな言葉だと感じる。ぼくらにそう感じさせる何かが、言葉のチカラってやつなのだ。
 そして、こういうチカラは、詩人が武器とすべきチカラなんである。アーティストが操るべきチカラなんである。言葉そのもの、つまり文字と読みと意味だけのシンプルなカタマリであるはずのものが、何故かしら不思議なチカラを持っている。それを巧みに操って、読む人の心を打つのが詩人の仕事なんだと思う。
 ぼくは無学なので専門用語はわからないが、言葉が原義以上の何かしらをもつことが言葉のチカラなんだと思う。

ジャーナリスト宣言

 ジャーナリストっていうのはどういう人であるべきか。「言葉のチカラを信じない人」であるべきではないだろうか。「言葉は○○」で言うなら「言葉は言葉」「言葉は記号」「言葉は手段」くらいの乾いた認識こそが、正しいジャーナリズムなんじゃないだろうか。正しさを言葉に宿らせない。「きれいごとのように美しいだけで中身のない言葉」なんて望まないのがジャーナリズムであってほしいと、ぼくは思う。正しさは言葉によって伝えられるもの(すなわち意味)にこそ宿らせなければならないはずだ。
 広く知らしめたいと思うものを人に伝える。それがジャーナリズムだとして、そこに言葉のチカラなんていらない。
 書きながら考えた(悪い癖だ)結果、「ジャーナリスト宣言」と「言葉のチカラを信じる」の間にぼくが本能的に矛盾を感じていたことが明らかになった。ねむい。
 政治的な意図からの朝日新聞批判とは全く無縁です。あとぼくの言葉も決して強いチカラをもったものでもないし、ぼくが思うジャーナリズムにのっとった完全なものではないことくらい分かっています。そして別にいいのです(どうでも)。

*1:関係ないけど「写真は○○」ってオノヨーコが出てるCMとかぶってるよね