引用しまくると怒られるかもしれんけど

中島 敦 「悟浄出世」からたっぷり引用。

「やれ、いたわしや。因果な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨めな一生を送らねばなりませぬぞ。(中略)この病に侵されたものはな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。(中略)お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治すよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」

(前略)一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの語彙ははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは流沙河の河底にそれぞれ考える店*1を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想しておった。ある高貴な魚族は、美しい縞のある鮮緑の藻の蔭で、竪琴をかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を讃えておった。(後略)

 なぜ、妖怪*2は妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡*3を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。あるものは極度に貪食で、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に淫蕩で、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に固執していて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。他人の考えの筋道を辿るにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。それゆえ、流沙河の水底では、何百かの世界観や形而上学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは願望*4はあれど希望*5なき溜息をもって、揺動く無数の藻草のようにゆらゆらとたゆとうておった。

 ぼくにとってインターネット界ちゅうかブログ界ちゅうか、それらはこんな感じ。

*1:原文傍点

*2:「ばけもの」とルビ

*3:「つりあい」とルビ

*4:「ねがい」とルビ

*5:「のぞみ」とルビ